中臣鎌足(藤原鎌足)子孫は、内閣総理大臣や弁護士、明治神宮の宮司も…

中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、飛鳥時代に中大兄皇子とともに大化の改新の中心人物となった政治家です。

後に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)に改名し、日本史で最大の氏族「藤原氏」の始祖となりました。

飛鳥時代から1200年以上続く家系を見てみると、有名な人物の名前の連続に驚かされます。

中臣鎌足の子孫の中で、現代で活躍している6名と、過去に活躍した4をご紹介します。

 

 

 

家系図

中臣鎌足(藤原鎌足)の家系図です。

日本史に登場する貴族の藤原道長や、元内閣総理大臣の近衞文麿などが目に止まりますね。

 

中臣鎌足は大化の改新の功績により、天智天皇から「藤原」姓が授けられました。

子孫は平安時代までは「藤原」を名乗っていましたが、鎌倉時代以降は家名を名乗るようになります。

公家の家格の頂点に立った近衛家、鷹司家、九条家、一條家、二条家は五摂家(ごせっけ)と呼ばれています。

 

日本においては皇室に次ぐ規模と歴史を持つ家系です。

 

現代で活躍中の子孫

中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫のうち、現在も活躍されている6名の子孫についてご紹介します。

 

近衞忠煇


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近衞忠煇(このえ ただてる)さんは、近衛家第31代当主で日本赤十字社の名誉会長を務めています。

初名を「細川護煇」といい、細川公爵家の細川護貞と近衞文麿の次女・温子の次男です。

近衞文麿の長男・文隆がシベリア抑留中に死去したため、近衛家の養子となりました。

妻は三笠宮崇仁親王の長女・甯子(やすこ)内親王です。

 

海外留学中に赤十字事業に興味を持ち、1964年に日本赤十字社に入社しました。

以来、赤十字一筋で国内外の活動に従事します。

2021年には、国際赤十字・赤新月社運動が個人に授与する最高位の褒賞「第26回アンリー・デュナン記章」を受賞しています。

 

細川護熙


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細川護熙(ほそかわ もりひろ)さんは、肥後熊本藩主であった肥後細川家の第18代当主で、第79代内閣総理大臣を務めた政治家です。

先にご紹介した近衞忠煇さんの兄になります。

朝日新聞記者を経て、政治家、現在は細川家ゆかりの美術品などを展示している永青文庫の理事長を務めています。

 

1971年の第9回参議院議員通常選挙に自民党公認候補をして全国区から立候補し、初当選しました。

その後、熊本県知事を2期8年務め、退任後は国政に戻り第79代内閣総理大臣を務めました。

還暦で政界引退した後は、陶芸家としても活動しているそうです。

 

 

九条道成

九条道成(くじょう みちなり)さんは、元公爵九条家の35代当主で、明治神宮の宮司を務めています。

実在する最後の藤原氏直下の人物で、血族の最末裔です。

 

國學院大学文学部神道学科卒業後、明治神宮に奉職しました。

2012年には禰宜(ねぎ)として宮司を補佐し、2016年には権宮司(ごんぐうじ)、2021年には宮司に就任します。

2017年に亡くなった父・九条道弘さんも、京都の平安神宮で宮司を務めていました。

 

二条基敬

二条基敬(にじょう もとゆき)さんは、東京都出身の元公爵二条家の現当主です。

学習院大学法学部を卒業後、神職や実業家として活動し、二条良基公顕会の役員も務めています。

二条基敬さんの父・二条弼基(にじょう たねもと)さんは政治家、伊勢神宮大宮司で、母・恭仁子(くにこ)さんは元皇族です。

 

一條實昭


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一條實昭(いちじょう さねあき)さんは、元公爵一條家の第28代当主で日本の弁護士として活動しています。

 

中央大学法学部卒業後、1968年に弁護士となりアンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所に入所しました。

その後、1978年にアメリカのロースクールで学び、現地の法律事務所で勤務した経験もあります。

現在はアンダーソン・毛利・友常法律事務所の顧問を務めています。

息子の一條実綱さんは一条家の次期当主です。

 

鷹司尚武


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鷹司尚武(たかつかさ なおたけ)さんは、鷹司家の第28代当主で伊勢神宮の大宮司を務め、現在は神社本庁統理です。

 

父・松平乗武と母・章子(鷹司信輔の次女)との間に生まれるが、鷹司尚武が生まれる数日前に父が戦死してしまいます。

その後、伯父・鷹司平通と妻・和子(昭和天皇の第三皇女)の養子となり、鷹司家を継ぐことになりました。

明仁上皇は義理の叔父になります。

 

慶応義塾大学工学部を卒業、同大学院工学研究科を修了した1972年に日本電気株式会社に入社します。

NEC通信システムの社長を2007年に退任した後は、2017年まで伊勢神宮大宮司を務めました。

現在は日本各地の神社を包括する神社本庁の統理(とうり)として、日本全国の神社を代表する活動をしています。

 

 

過去に活躍した子孫

中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫が、過去の歴史でどのような活躍をしたのか見ていきましょう。

 

藤原不比等


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藤原不比等(ふじわらのふひと)は、中臣鎌足(藤原鎌足)の次男です。

娘の娼子を蘇我連子に嫁がせ、2人の間に生まれた娘・蘇我宮子を文武天皇の妃としたことにより、藤原氏の地位を安定させました。

 

また、藤原不比等には武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の4人の息子がいます。

彼らは朝廷において大きな影響力を持ち、政治を動かしました。

特に房前を祖とする藤原北家からは、藤原道長や五摂家などを輩出しています。

 

藤原不比等と息子たちは藤原氏繁栄の礎を築いたのです。

 

藤原道長


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藤原道長(ふじわらのみちなが)は、平安時代中期の公卿(くぎょう)です。

公卿とは、国政を担う職位のうち太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議などの高官を指します。

 

父・兼通が摂政として朝廷において権力を握っていたが、藤原道長は五男であったため目立たない存在でした。

しかし、父の後を継いだ兄たちが相次いで病死します。

これにより、藤原道長は左大臣となり政権を掌握しました。

 

その後、一条天皇に長女・彰子(しょうし)を嫁がせ皇后にします。

次の三条天皇には次女・姸子(けんし)を嫁がせました。

しかし、三条天皇と深刻な対立があった藤原道長は天皇を退位に追い込みます。

そして、一条天皇と彰子との間に生まれた子を後一条天皇として即位させました。

 

藤原道長は自分の娘を天皇に嫁がせることで、より高い地位についたのです。

 

 

藤原頼通


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藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、平安時代中期〜後期にかけての公卿、歌人で、藤原道長の長男です。

 

父から後一条天皇の摂政を譲られた藤原頼通は、後朱雀天皇と後冷泉天皇の治世において50年に渡り関白を務めました。

父とともに藤原氏の最盛期を築き、藤原頼通が造営した平等院鳳凰堂がその象徴と言えるでしょう。

 

しかし、天皇に嫁がせた藤原頼通の娘たちは男児に恵まれませんでした。

さらには戦乱が相次ぎ、絶対的かと思われた藤原氏の権力体制が揺さぶられる事態となります。

そんな状況の中で即位した後三条天皇は藤原頼通と疎遠であったため、藤原氏の権力は衰退へ向かい、武家政権の時代に突入します。

 

鎌倉時代に入っても、藤原氏の嫡流である五摂家が天皇の摂政・関白を独占し続けますが、政治の中枢からは遠ざかることになったのです。

 

近衞文麿


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近衞文麿(このえ ふみまろ)は、近衛家の第30代当主で第34・38・39代内閣総理大臣を務めた政治家です。

第1次近衞内閣では日中戦争が勃発し、第2次・第3次近衞内閣では大東亜共栄圏を掲げ日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結するなど激動の時代でした。

太平洋戦争終戦後、日本を戦争に導いたとしてA級戦犯の逮捕令を受けた近衞文麿は服毒自殺により生涯を終えました。

 

太平洋戦争の敗戦を見越していた近衞文麿は、戦争責任が天皇に及ばないようにしていたと言われています。

常に天皇とともにあった藤原氏の子孫としてのプライドから出た行動かもしれませんね。

 

世間の声


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まとめ

中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫のうち10名について紹介しました。

 

現代の子孫は、神道にまつわる職業の方が多い印象を受けますね。

  • 近衞忠煇さんは日本赤十字社の名誉会長
  • 細川護熙さんは第79代内閣総理大臣を務めた政治家
  • 九条道成さんは明治神宮の宮司
  • 二条基敬さんは神職や実業家として活動
  • 一條實昭さんは日本の弁護士
  • 鷹司尚武さんは神社本庁統理

 

過去の子孫からは、天皇との密接な繋がりが感じられました。

  • 藤原不比等は息子たちとともに朝廷の実権を握り、藤原氏繁栄の礎を築いた
  • 藤原道長は自分の娘を天皇に嫁がせることで、より高い地位についた
  • 藤原頼通は藤原氏の最盛期を築き、平等院鳳凰堂を造営した
  • 近衞文麿は日本を戦争へと導いたが、戦争責任が天皇に及ばないようにしていた

 

中臣鎌足を祖として1200年続く藤原氏の子孫の活躍から、日本という国が持つ歴史の長さを感じることができるでしょう。

これからの子孫たちの活躍にも期待が高まりますね。

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