豊臣秀吉の性格が途中で180度変わったのは脳の◯◯病気説

豊臣秀吉は、本能寺の変で亡くなった織田信長の跡を継いで、天下統一を成し遂げた人物です。

織田信長の草履を温めた話など、その献身的な性格や、「人たらし」として知られています。

 

しかし、そんな豊臣秀吉の性格が天下統一を境にガラリと変わってしまったのです。

調べていく中で、性格が変わった原因は「脳の病気」という説を発見しました。

豊臣秀吉がかかった可能性がある病気と、性格の変化が分かるエピソードをご紹介します。

脳の病気により性格が変わった説


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豊臣秀吉の性格は天下をとった前後で別人のように変化しました。

その原因は、「ウェルニッケ脳症」という脳の病気と言われています。

なぜなら、ウェルニッケ脳症はコルサコフ症候群と呼ばれる後遺症が高確率で残るためです。

 

コルサコフ症候群には次のような症状があります。

  • 逆行性健忘(過去のことが思い出せなくなる)
  • 作話(足りない記憶を無意識に妄想で埋め合わせする)
  • 記憶と妄想の区別がつかなくなる

このような記憶障害がありながら、思考や会話は正常に行えるそうです。

本人は自覚がないので、周囲の人からは性格が変わったと思われるでしょう。

 

ウェルニッケ脳症は、ビタミンB1の欠乏が主な原因となって発症します。

同じく、ビタミンB1の欠乏を原因としている病気は「脚気」(かっけ)です。

ウェルニッケ脳症や脚気といった病気は、過去の日本において裕福な人がかかる病気と言われていました。

裕福な人と庶民の食生活の違いに、その秘密が隠されています。

 

今も昔も、日本人の主食といえばお米です。

今では一般的な「白米」(精米して糠を取り除いた米)ですが、昔は裕福な人しか食べられないものでした。

白米を食べられない庶民は、精米していない「玄米」を食べます。

しかし、ビタミンB1は玄米に多く含まれていますが、白米にはほとんど含まれていません。

そのため、裕福な人はビタミンB1不足になりやすいのです。

 

天下をとる前の豊臣秀吉は、天下統一のために奔走し、豪華な食事を取る余裕はなかったでしょう。

しかし、天下をとった後は自らが現場に出る機会が減り、貴族的な生活を送るようになります。

それによって白米中心の食生活に変わったと考えられます。

このことから、豊臣秀吉がウェルニッケ脳症にかかる可能性は十分に高いと言えるでしょう。

 

天下をとる前の性格


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天下をとる前の豊臣秀吉は人から好かれやすい性格をしており、百姓の子から下剋上をしたことで有名です。

そんな豊臣秀吉の人柄の良さが分かるエピソードをご紹介します。

 

超献身的

豊臣秀吉はその超献身的な行動で織田信長に気に入られます。

豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)は、1554年(18歳)から織田信長に仕えていました。

 

織田信長の草履持ちをしていた豊臣秀吉は、冬の寒さで冷えた草履を主人に履かせたくないと考えます。

そこで豊臣秀吉は織田信長の草履を自分の懐で温めることにしました。

この献身的な行動がきっかけで織田信長の目に留まった豊臣秀吉は、織田信長に重用される存在になります。

 

豊臣秀吉の優しい気遣いが、織田信長の心を動かした有名なエピソードです。

 

人たらし

豊臣秀吉は「人たらし」と呼ばれ、人の心をつかむことに関して天才的な人間です。

 

島津義久や伊達政宗に対し、豊臣秀吉は刀を持たない丸腰で会う機会がありました。

相手はいつでも豊臣秀吉を斬ることができる状況でありながら、豊臣秀吉の度量にのまれて行動できなかったそうです。

 

『賤ヶ岳合戦記』では、猛暑に苦しむ負傷兵に対して、農家から買った笠を敵味方関係なく被せて回ったというエピソードもありました。

苦しむ人々にはためらいなく手を差し伸べる姿勢は、敵であっても心を揺さぶられたことでしょう。

 

豊臣秀吉の器の大きさが感じられるエピソードでした。

 

人を殺められない

戦国時代というと、敵や失敗を犯した部下などは容赦なく斬り捨ててしまうイメージがある方も多いでしょう。

しかし、豊臣秀吉は殺生を好まない人物であると言われています。

 

豊臣秀吉は賤ヶ岳の戦いの後、敵対していた毛利一門の小早川隆景にある書状を送りました。

その書状には「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と書かれていたのです。

その後、小早川隆景は豊臣秀吉に積極的に協力し、小早川隆景は多くの功績を挙げます。

豊臣秀吉も小早川隆景を信頼し、「日本の西は小早川隆景に任せれば全て安泰である」と評価するほどの関係となりました。

 

無用な殺生を好まない豊臣秀吉の周りには、彼を慕う多くの人材が集まっていたことが分かりますね。

 

 

天下をとった後の性格


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天下統一直後の豊臣秀吉は、かつて敵対していた大名たちを助命するなどの寛容さを見せます。

しかし、天下統一からしばらくすると、徐々に豊臣秀吉の性格に変化が表れてきました。

 

独裁者的思考

豊臣秀吉は独裁者的な思考で自分の主張を貫き、国内では民衆の支配を強め、朝鮮に対して2度の戦争を起こしました。

 

天下をとった後の豊臣秀吉は、国内で「太閤検地」や「刀狩り」といった政策を実施しています。

太閤検地により、耕作量に応じて効率的に年貢を徴収できるようにしました。

そして、刀狩りによって農民から武器を取り上げ、農民は一揆を起こせなくなります。

 

これによって、豊臣秀吉は安定した年貢の確保と、農民による反乱を抑え込んだのです。

民衆を徹底的に押さえつけ逃げ場をなくすという政策は、まさに独裁者的性格が表れているといえるでしょう。

 

さらに、豊臣秀吉は朝鮮、明(中国)、天竺(インド)までも支配下に治めようと戦争を起こします。

豊臣秀吉が朝鮮に送った国書は、「明討伐軍の案内役を朝鮮に頼みたい。これを引き受けてくれれば、日本と朝鮮の盟約は強固なものになるでしょう。」という内容でした。

「只ただ佳名を三国(全世界)に顕さんのみ」との記述もあり、豊臣秀吉は自らの名を世界に知らしめたいと考えていたのです。

これを朝鮮に拒否されたため、豊臣秀吉は朝鮮出兵を決行します。

 

文禄・慶長の2回の朝鮮出兵で、日本軍はそれなりの成果をあげます。

しかし、目的であった朝鮮を経由して明に攻め込むことはできず、多くの犠牲を出しました。

豊臣秀吉の世界を支配したいという突拍子もない発想には、少々妄想めいたものを感じますね。

 

晩年の豊臣秀吉は、自分の立場を脅かす可能性がある民衆や他国に対して悪い妄想を膨らませてしまったのかもしれません。

天下をとる前の豊臣秀吉であれば、武力行使や強制的な手法を用いず、友好的な手段を取れたのではないかと感じました。

 

人を殺める

豊臣秀吉は自分の息子・豊臣秀次を、謀反の確かな証拠もないまま切腹させました。

 

1595年、豊臣秀次に対して突然謀反の疑いがかけられ、豊臣秀次は側近らとともに切腹します。

それでも安心できない豊臣秀吉は、豊臣秀次の妻や子供らまでも処刑しました。

これにより亡くなった人数は30人を超えますが、謀反の疑いをかけた理由は今も謎に包まれています。

 

天下をとる以前の豊臣秀吉ではありえない行動です。

豊臣秀吉自身の心の中では、息子が切腹すべき確固たる理由があったのでしょう。

しかし、まるで別人のような行動には驚きを隠せませんね。

 

 

世間の声


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まとめ

豊臣秀吉がかかった可能性がある脳の病気と、性格の変化についてまとめました。

  • 天下をとった後は食生活の変化によって、ウェルニッケ脳症を患った可能性がある
  • ウェルニッケ脳症の後遺症による記憶障害で、性格が変わったように感じることがある
  • 天下をとる前は超献身的な性格で、草履を温めた出来事で織田信長に気に入られた
  • 「人たらし」と呼ばれ、敵からも一目置かれていた
  • 人を殺めたくない性格で、敵にも温情を示し、仲間に引き入れることもあった
  • 天下統一後は独裁者的な性格になり、「太閤検地」や「刀狩り」という政策で民衆を押さえつけた
  • 2度の朝鮮出兵では多くの犠牲を払った
  • 息子の豊臣秀次らを、証拠のない謀反の疑いで切腹させた

 

天下をとった後の行動は、民衆からの搾取と他国への侵略というまさに独裁者的なものでした。

また、一時の感情で身内すらも殺めてしまったことには悲しみを感じざるを得ません。

 

豊臣秀吉の性格の変化については、脳の病気以外にもさまざまな説が議論の対象となっています。

しかし、ここまでの変化を見ると病気の可能性は十分にあると思いました。

もし豊臣秀吉の性格が変わらなかったら、日本の歴史は違ったものになっていたかもしれませんね。

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