江戸幕府最後の将軍として歴史の変換期を生きた徳川慶喜。
大政奉還を決意し、長く続いた江戸時代を終わりに導いた人物として有名ですが、子どもはたくさんいたといわれています。
そんな徳川慶喜の子孫は今どうしているのでしょうか?家系図をもとに解説していきます。
結論:徳川慶喜の子孫は現在はもういない
徳川慶喜の子孫は、直系の4代目徳川慶朝 氏が2017年9月に亡くなって途絶えたといわれています。
たしかに慶喜家という家を引き継ぐ者は途絶えまいしたが、子だくさんだった慶喜の血は今も続いており曾孫、玄孫として現代を生きている人たちがたくさんいます。
徳川慶喜の子孫は20人以上もいた
徳永慶喜は子だくさんでした。
慶喜の子孫は、2人の側室から生まれた子どもたちになります。合わせて10男11女。正室(一条美香子)との間には結婚の3年後に女の子を授かりましたが生まれて数日で亡くなっています。
慶喜が将軍後見人として京に向かってから、慶喜の将軍時代、そして将軍職返上後の謹慎生活など、慶喜と美香子夫人は長期間の別居期間が続きました。
側室との間は子だくさんでしたが、美香子夫人の身体が弱かったことや若いときに長い別居期間が続いたことで、その後、子供はできなかったと言われています。
徳川慶喜家の最後の当主はカメラマン「徳川慶朝」
徳川慶喜の ひ孫 にあたる徳川慶朝は1950年に、第3代当主・徳川慶光のもとに生まれました。
母方は松平家で、幕末の大名である松平容保の ひ孫 でもあります。広告制作会社勤務などを経てフリーランスの写真家になられています。
2017年9月25日に、心筋梗塞のため亡くなりました。享年67歳でした。
慶朝には3人の子供(2男1女)がいますが、妻とはすでに離婚しており子供は3人とも元妻が引き取り徳川姓ではないとのことです。
晩年にはコーヒー好きが高じ、徳川慶喜が飲んだであろうコーヒー豆の再現を目指し、自ら焙煎し、コーヒー豆の販売を行うなどをしてたそうです。
著作に、『徳川慶喜家の食卓』 (文藝春秋、2005年)や『徳川慶喜家カメラマン二代目』 (角川新書、2007年)があります。
家系図
正室・一条美賀子の間にできた子孫
正室の一条美賀子との間には結婚直後に女の子を授かったとのことですが、すぐに亡くなってしまいました。
その後、慶喜とは別居生活が10年ほど続きました。慶喜は時代変化の渦中にいたこともあり、将軍後見職として京都に滞在していました。
将軍となった後も江戸城には入場ませんでした、そのため美賀子も将軍正室でありながら一度も江戸城大奥には入城していません。
一緒に再び暮らし始めたのは、将軍職返上後の謹慎が解除してからとのことです。
若い時代の慶喜との長い別居期間、そして美賀子の体調もあり、二度と子供は授からなかったようです。
側室・新村信との間にできた子孫
明治維新以降、側室は2名でした。そのうちの一人、新村信との間には5人の女の子と5人の男の子が生まれました。
徳川慶喜家の2代目当主となったのは七男、徳川慶久です。
五男・池田仲博は貴族院議員・陸軍軍人
生誕 1877年(明治10念)8月28日- 死没 1948年(昭和23年)1月1日
徳川慶喜家の5男として生まれましたが、それまでの子どもは幼いうちに亡くなってしまったため事実上、長男として三男四女の子どもに恵まれました。
七男・徳川慶久(よしひさ)は第一銀行取締役
生誕 1884年(明治17年)9月2日- 死没 1922年(大正11年)1月22日
生まれた時は久(ひさし)と名付けられ、徳川慶喜家の継嗣になる際に、「慶久」と改名されたそうです。妻は有栖川宮威仁親王第二王女の徳川實枝子。1男4女に恵まれました。
貴族院議員・第一銀行取締役・家族世襲財産審議会議長などを歴任し、非常に多趣味で才能にあふれる人柄だったといわれています。
1910年に公爵を受け継ぎ、徳川慶喜家の第二代当主となりました。
しかし、1922年1月、37歳という若さで急逝しています。
死因は脳溢血とされていましたが、一部には自殺説も取り沙汰されています。また睡眠薬の服薬量を間違えた過失死であるとの証言もあるようです。
十男・勝精(かつくわし)は勝海舟の娘と結婚
生誕 1888年(明治21年)8月23日 – 死没 1932年(昭和7年)7月10日
1888年に徳川慶喜の十男として生まれました。母は新村信。
勝海舟から慶喜に養子縁組の話があり、慶喜は精の養子入りを承諾しました。勝海舟の孫となる伊代子の婿として、勝家に入りました。
伊代子との間に1男5女をさずかりました。
孫・宣仁親王妃 喜久子は昭和天皇弟と結婚
生誕 1911年(明治44年)12月26日‐死没 2004年(平成16年)12月18日
1930年に宣仁親王と結婚。慶喜の孫と昭和天皇の孫との結婚とあり、「公武合体」と話題をよびました。
孫・徳川慶光(よしみつ)は貴族院議員
生誕 1913年(大正2年)2月6日 - 死没 1993年(平成5年)2月6日
1922年(大正11年)に、父である徳川慶久(第二代当主)が急死したため、齢わずか10歳で爵位を受け継ぎました。1938年(昭和13年)に会津松平家の子爵松平保男の四女・和子と結婚しています。
1943年(昭和18年)2月6日に満30歳となり貴族院公爵議員に就任しました。
終戦後、華族制度の廃止に伴い、爵位と貴族議員の議席を失っています。
孫・井出久美子は95歳で作家デビュー
生誕 1922年(大正11年)9月23日 – 死没 2018年(平成30年)7月1日
慶喜の孫にあたる井出久美子は、慶喜の七男(慶久・第二代当主)の四女として誕生しました。
慶喜の死後に誕生した孫とのことで直接の面識はないものの、慶喜が晩年過ごしたお屋敷で幼少期を過ごしたとのことです。
なんと95歳のときに、10年以上前から温めていた原稿を一念発起で仕上げ、自叙伝『徳川おてんば姫』(東京キララ社)を出版しています。
95歳にして作家デビューということで当時話題になりました。
出版・作家デビューからわずか1か月足らずの2018年7月1日に老衰のため死去しています。
ひ孫・徳川 慶朝(よしとも)はカメラマン
生誕 1950年(昭和25年)2月1日 – 死没 2017年(平成29年)9月25日
徳川慶喜家第三代当主・徳川義光と会津松平家出身の和子との間に長男として生まれました。
大学を卒業後は広告制作会社東京グラフィックデザイナーズに20年間勤務し、広告写真の分野で活躍しています。
独立後はフリーの写真家として歴史的建造物や徳川家伝来の遺跡を中心に撮影を行っていたとのことです。
フリーで活動を開始後、徳川慶喜家に秘蔵されていた写真を発見し、修正、保存・整理を自ら行っていました。
中には慶喜自身が撮影していた写真も含まれているということです。
元妻との間に二男一女をもうけましたが、離婚後、子どもは3人とも元妻が引き取り徳川の姓ではありません。
2017年9月に心筋梗塞により茨城県水戸市の病院で67歳で死去されています。
側室・中根幸との間にできた子孫
明治維新後も慶喜の側室として仕えた2人の側室のうちの一人は中根幸です。
慶喜との間に6人の子供二男四女を出産しています。
四男・德川厚(あつし)は東明火災海上保険取締役
生誕 1874年(明治7年)9月2日 – 死没 1930年(昭和5年)6月12日
慶喜の四男ですが、兄たちが幼くして亡くなっていることから、事実上の長男として育てられたといいます。
1904年に貴族院議員に就任して以来、1925年まで貴族議員を務めました。
また、当時の東明火災保険(後に東京海上火災に合併)の取締役も務めました。
慶喜が興した徳川慶喜家の家督は、弟の慶久が継いでいます。
九男・徳川誠(まこと)は実業家
生誕 1887年(明治20年)10月31日 – 死没1968年(昭和43年)11月11日
慶喜の九男で1908年学習院中等科を卒業すると、同年アメリカ合衆国ミシガン州のホープ・カレッジに留学しています。
アメリカから帰国後は横浜正金銀行に勤務し、アメリカやフランスの支店に赴任。
帰国後、同行を退職し、浅野セメント監査役に就任するなど実業家として名を馳せました。
1946年(昭和21年)に、貴族院議員に選出され、貴族院廃止まで務めています。
世間の声
まとめ
今回は、徳川慶喜の子孫について調査いたしました。
- 徳川慶喜は2人の側室との間に10男11女と子だくさんであった
- 徳川慶喜家を最後の当主、徳川慶朝には離婚した妻との間に3人の子供がいるが、母側に全員引き取られている
- 孫は90歳超えて作家デビューをしている
- 徳川慶喜家は第四代で終わりを遂げた
非常に子だくさんだった慶喜ですが、残念ながら徳川慶喜家というのは第四代で途絶えてしまいました。
しかし、血縁関係者を子孫というならば曾孫、玄孫とたくさんの方々が現代も生きておられます。
今回の調査を通して、単なる歴史上の人物だった徳川慶喜も、実在する人物だったと実感がわきます!
徳川慶喜と血のつながりを持っている方々にはこれからも歴史を守っていっていただきたいです。