藤原道長の4人の娘たちは政略結婚で天皇家に嫁いだ?

平安時代の権力者としてナンバーワンの藤原道長。

当時、藤原道長は多大な権力を誇っていましたが、その根底は娘たちを天皇家に嫁がせ親戚となれたからこそです。

今回はその娘たちがどんな人物だったのか調査してみました。

政略結婚説もあるので、その視点でも見ていっていただければと思います!

家系図


出典:https://www.google.com/

家系図から見ても分かる通り、娘たちが天皇の嫁として嫁いでいますね。

またその娘も男子を産み、その子供は後の天皇となっていることがわかります。

藤原道長の娘たち

それでは早速、藤原道長の娘たちがどんな人物だったのか見ていきましょう。

見ていただくと、政略結婚説もあるのではないかと思ってしまうと思います。

 

藤原彰子

藤原彰子(ふじわらのしょうし)は、史上初の「二后」となった人物です。

後に産んだ皇子、居貞親王が三条天皇となり、国母となりました。

 

藤原彰子は藤原道長の長女で、12歳の時に一条天皇に女御として入内し、翌年中宮となりました。

藤原彰子入内当時、一条天皇には既に中宮として藤原定子がいたため、藤原定子を皇后、藤原彰子を中宮とし、史上初の二后となりました。

実はこのとき、権力を拡大させたい藤原道真の意図を汲み藤原行成が藤原彰子を中宮にと意見したのです。

しかし、二后の期間は長くは続かず、1年も経たないうちに藤原定子は難産のため崩御してしまいます。

 

その後、藤原彰子は13歳という若さで藤原定子が産んだ子、敦康親王の養母となります。

長年の間、藤原彰子には子供に恵まれませんでしたが、藤原彰子自身も懐妊し、難産の末、敦成親王(後一条天皇)を出産しました。

翌年も懐妊し、敦良親王(後朱雀天皇)を出産しました。

2人の親王の誕生により道長の威厳も拡大します。

 

後にこの2人は後一条天皇、後朱雀天皇としてそれぞれが天皇に即位します。

藤原彰子は史上初の「二后」、そして「国母」となったのです。

 

 

藤原妍子

藤原妍子(ふじわらのけんし)は藤原道長の期待に応えられず皇子を産めなかった女性です。

 

藤原妍子は藤原道長の次女として産まれました。

皇太子だった居貞親王のもとへ入内します。

 

居貞親王には当時すでに20年以上連れ添った女御、娍子がおり、4人の皇子にも恵まれていました。

この2人の間を割って入り、男子を産まなければならない状況だったのです。

 

藤原妍子が入内した翌年、一条天皇がこの世を去り、居貞親王が即位し三条天皇となります。

藤原妍子も女御し中宮となりました。

 

翌年、藤原妍子は懐妊しましたが、出産したのは皇女でした。

男児を期待していた藤原道長は大層不機嫌であったと言います。

結果的には、藤原妍子は皇子を産むことができず、藤原道長の期待には応えられませんでした。

 

藤原威子

藤原威子(ふじわらのいし)も皇子を産めなかった女性です。

 

藤原威子は藤原道長の三女として生まれました。

藤原威子が20歳の時に後一条天皇に入内します。

 

この、後一条天皇は一条天皇と藤原彰子の子供です。

よって、藤原威子から見れば甥っ子ですね。

入内当時は後一条天皇11歳、藤原威子20歳で、歳の差結婚でした。

 

入内当時は大層恥ずかしい思いをしていたそうですが、夫婦仲は悪くなかったと伝えられています。

藤原威子にも皇子出産を期待されていましたが、結局2人の間には皇女しか誕生しませんでした。

 

藤原嬉子

藤原嬉子(ふじわらのきし)は藤原一族最後の天皇を産んだ人でしたが、天皇となる姿を見ることなく早くに亡くなってしまいます。

 

藤原嬉子は藤原道長の六女で末娘として生まれました。

14歳の時に皇太弟敦良親王(後朱雀天皇)に入内します。

 

それから4年後に皇子を産みますが、そのわずか2日後に亡くなってしまいます。

赤斑瘡(あかもがさ)という炎症型天然痘の一種が原因でした。

 

国母となることを夢見て入内したはずが、その夢が叶うこともなく短い生涯を終えたのです。

この時産んだ皇子が後に天皇、冷泉天皇となりますが、藤原一族の中での最後の天皇でした。

ここから藤原一族衰退へのカウントダウンが始まったのです。

藤原嬉子は藤原一族最後の天皇を産みましたが、天皇となった姿を見る前に亡くなってしまいました。

 

 

世間の声


出典:https://twitter.com/

 


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まとめ

今回は藤原道長の娘たちについて調べてみました。

・藤原彰子は史上初の「二后」となり、皇子を産み、後に国母となった。
・藤原妍子は天皇の中宮となったが皇子を産むことはできなかった。
・藤原威子も天皇の中宮となったが皇子を産むことはできなかった。
・藤原嬉子は藤原一族最後の天皇を産んだが、天皇となる姿を見ることなく早くに亡くなってしまった。

 

4人とも藤原一族反映のため、女性として男児を産み天皇とするという重圧の中生きていたのがわかりました。

また、この藤原一族というのは、嫁いだ皇太子が天皇に即位したり、産んだ皇子が天皇に即位したりと、抜群の強運の持ち主であったのではないかとも思いました。

藤原道長の娘である彼女たちの活躍が藤原道長や藤原一族の繁栄の賜物であったのです。

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