戦国時代を象徴する三英傑の1人、織田信長。
本能寺の変から450年。
下剋上と言われた時代、信長の「天下統一」の夢を叶えたのは織田家ではなく、豊臣秀吉がその座を奪い、その後は徳川家康へと移っていきました。
はたして、信長の子孫はまだ実在するのでしょうか?
いるとすれば、どんな職業についているのか?信長に似ているのか?
そして、元フィギュアスケート選手の織田信成さんが信長の子孫という話は本当なのでしょうか?
今回は「織田信長の子孫は誰なのか?」ということで、過去から徹底調査してみました。
目次
子孫疑惑その1: 織田木瓜紋会の理事長は、本当に信長の子孫なのか?
令和3年9月12日「一般社団法人織田木瓜紋会」の理事長を務める織田茂和さん(ジュエリー企業勤務)と、同じく理事を務める明智憲三郎さん(歴史学者)が招かれ、比叡山延暦寺で犠牲者らの法要が営まれました。
この日招かれた織田茂和さんは、本当に信長の子孫なのでしょうか?
残念ながら、茂和さんが誰の末裔なのかを調べることができませんでした。
そこで、お二人が理事長と理事を務める「一般社団法人織田木瓜紋会」について調べてみましたが、 下記のツイッターを見ると、少なくとも2015年からすでに活動しているようですね。
同じ目標に向かって共に活動しているということは、 織田と明智の両家の和解は既にされていたことになります。
そして今回、信長の黒歴史ともいうべき「比叡山」を舞台にした行事に、両家が参列したことは、恨みを捨てたことを世に知らしめたと言えますね。
織田信長による「比叡山焼き打ち」から450年を迎えた12日、比叡山延暦寺で犠牲者らの法要が営まれ、信長と明智光秀の子孫が初めて招かれた。今年は延暦寺を開いた天台宗の開祖・最澄(767~822年)の千二百回忌で、敵味方を区別しない仏教の「怨親(おんしん)平等」の精神を改めて示した。
出典:毎日新聞社https://mainichi.jp/articles/20210912/k00/00m/040/050000c
ところで、茂和さんは名前に「信」が使われていません。気になる記事がありましたので次にご紹介します。
子供の名前に「信」をつけるのをやめた19代当主の決断とは?
信長の二男、織田信雄(のぶかつ)の血を引く丹波柏原織田家の18代当主である織田信孝さん。
学習院を出た御曹司ながら、その後は様々な職を経て、現在は織田孝一という名前でフリージャーナリストをしているそうです。
また、次の19代当主となる息子の名前に「信」の字を使わなかったことで話題となりました。
こちらのサイトで信長より前の世代から続く400年以上の伝統を破り、子供の名前に「信」をつけなかった理由がわかります。
初対面の人が僕の出自を知ると、「すごいですね」とよく言います。ぜんぜんすごくないですよ。すごいのは信長で、僕が天下統一のお手伝いをしたわけじゃない(笑)。自分が、本質ではなく、血筋や出身校などの属性で判断されてしまうのは悲しい。そんなこともあって、自分の子どもは個人として生きやすくしてあげたかったのです。
出典:週間朝日https://dot.asahi.com/wa/2014111300075.html?page=2
この話からすると「一般社団法人織田木瓜紋会」の理事長織田茂和さんは、信長の二男信雄の子孫の可能性があります。
また、信雄の出生について次にご紹介します。
二男信雄は本当は三男だった?
「美濃のマムシ」と言われた齋藤道三を父親にもつ濃姫(帰蝶または胡蝶とも言われる)は、15歳で信長に嫁ぎました。
濃姫は正室でありながら、信長との間には子供がいなかったと言われています。
しかし、信長には11男9女の子供がいることがわかっています
また、信長には正室以外に9人の側室がおり、ほかにも名前の残っていない側室や妾も多数いたとの話もあるようです。
側室の中でも一番のお気に入りだったのが「生駒吉乃(いこまきつの)」です。豪族に嫁いだ未亡人で、信長が足しげく通い側室に迎え入れました。
しかし、その最愛の女性は病気がちで29歳で亡くなり、そのときばかりは信長も涙を流したと言われています。
子宝に恵まれた信長でしたが、父親に目をかけてもらえたのは長男、二男、三男だけだったようです。
ちなみに、信長の息子である長男と二男の生母は側室の生駒吉乃で、三男の生母は同じく側室の「坂氏(さかし)」です。
同じ側室とはいえ、吉乃は信長の寵愛を受け「正室扱い」だったと言われています。
そのためか、三男の信孝は、じつは二男の信雄より20日早く生まれていると言われており、母親の身分が低いために出生順位を遅らせたのでは?と言われています。
濃姫の記述はあまり残っていないらしく、信長との関係性は諸説あり、本当のところがわからないのですが、生母不明の子供が他にもおり、その中に濃姫との子供がいた可能性はあるようです。
濃姫って信長に嫁いだ時は3度目の結婚だったみたいよ。
[/word_balloon]父親による政略結婚で、10歳と12歳の時だよね。
[/word_balloon]濃姫が戻ってきた理由が旦那様との死別らしくて。気の毒ね。
[/word_balloon]その死別の陰には父親の道三がいるみたいだしね。
[/word_balloon]マムシと言われた道三も信長は倒せなかったのね。
[/word_balloon]信長の息子たちの足取りを調査してみた
- 長男:信忠 (本能寺の変により自害 享年26歳)
- 二男:信雄 (秀吉の家臣になるも、その後領地を没収され晩年は僧侶となる)
- 三男:信孝 (賤ヶ岳の戦いに敗れ自害)
- 四男:於次丸[おつぎまる](秀吉の養子 羽柴秀勝 病死)
- 五男:勝長 (岩村城主の未亡人の養子 本能寺の変により死亡)
- 六男:信秀 (秀吉の家臣になるも、晩年は僧侶となる)
- 七男:信高 (氏家家に預けられ、その後秀吉の家臣となる)
- 八男:信吉 (秀吉の家臣となる 羽柴武蔵守)
- 九男:信貞 (秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでの敗北により庶民となる)
- 十男:信好 (秀吉の家臣となる 茶人でもあった)
- 庶長氏:信正 (本能寺の変後、僧侶となる)
※ 庶長氏 とは正式な婚姻関係にない両親から生まれた子供の意。
子孫疑惑その2:茶道有楽流17代目家元は、本当に信長の子孫なのか?
有楽流(うらくりゅう)は、織田信長の実弟織田長益(有楽斎)に始まる武家茶道の流派の1つです。
現在は17代目 織田宗裕(おだ そうゆう)氏(本名:織田裕美子さん) が務めています。
平清盛も記載されている家系図は約25mもあり、それによると信長には26人の兄弟がおり、長益は11番目の末弟だそうです。
ちなみに信長は三男。元服後は「三郎信長」と呼ばれていたことからも三男で間違いないようです。
長益は千利休の門弟として茶法の伝授を受け、有楽斎如庵(うらくさいじょあん)と号し、それを次男の頼長に伝えました。
頼長は1614年大坂冬の陣で、有楽斎より徳川方につくように勧められました。
しかし、それには従わず、河内に隠棲して雲生寺道八(どうはち)と号しました。
その後京都に出て、東山の円山に「左阿弥(さあみ)」を建てて移り住んだそうです。
その息子の三五郎は、父祖以来の名物茶器を愛好し『織田三五郎遺品分配目録』を遺書として残しています。
有楽流の茶法は三五郎より、信長の九男信貞の二男織田貞置に伝授され、貞置流とも称されるようになりました。
貞置は徳川家康に仕え1000石の旗本となり、松本見休(けんきゅう)らの門弟を育てました。
こちらは、橿原神宮の橿原だよりにて掲載されたもので、平成29年5月6日発行の「有楽流献茶祭」の記事です。
平成29年5月5日に行われた、有楽流宗家17代目織田宗裕氏奉仕による献茶祭の様子になります。
出典:橿原神宮https://kashiharajingu.or.jp/news/%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A/1263.html
家には信長が側室に送ったと思われる手紙や、長益が信長から拝領したとされる陣羽織など、貴重な品が多数あるそうです。
普段は博物館に納めてあるそうですが、お茶会でお披露目されることもあるようです。
子孫疑惑その3:元フィギュアスケート選手は、本当に信長の子孫なのか?
元フィギュアスケート選手の織田信成さんは、信長の七男織田信孝の17代目にあたると自称しています。
調査によると、明治維新までは織田信長より続いた織田信真の系図には信憑性があるようです。
しかし、9代信真の時に廃藩置県などに伴い家禄を失うと「写真屋」として生計を立てたそうですが、没年は不詳で、その後、第10代から13代が不詳となりました。
そして、14代が織田重治さん(1917年生まれ)、15代が織田信義さん、そしてその次男が織田信成さんとなる系図です。
つまり、10代目から12代目までが判明しておらず、13代目はわかっているようですが、親戚に迷惑がかかるとの理由で明らかにされていないそうです。
また、アマチュア歴史研究家だった織田信成さんの祖父重治さんが、独自の調査によって自分が信長の子孫であることを突き止めたのだと言われています。
これでは、世間から疑いの目を向けられても仕方のないことに思えますが、織田信成さんのお顔を見ると、教科書で見た信長の肖像画に「なるほど似ている!」と思ってしまうのは私だけでしょうか?
じつは、信長の肖像画は20点近くあるそうで、こちらのサイトは肖像画を集めた記事になります。
出典:レキシルhttps://rekishiru.site/archives/13390
まとめ
今回は「織田信長の子孫は誰なのか?」ということで、過去から徹底調査してみました。
- 織田木瓜紋会の理事長は、本当に信長の子孫なのか?
- 茶道有楽流17代目家元は、本当に信長の子孫なのか?
- 元フィギュアスケート選手は、本当に信長の子孫なのか?
当時は家を存続させるために養子縁組をすることはよくあることでした。
そのため子孫と言われる方たちが、織田信長の血を引いているとまでは言えないかもしれません。
しかし、織田信長という偉大な先祖の末裔であるということは、誇りであり重責でもあるのだろうと感じました。
戦国時代の武将で好きな武将は誰かと聞かれたら、私は「織田信長」と答えます。
まだ解明されていないこともある中で、歴史研究家の方々から、これからも新たな史実が発見されるのを楽しみにしたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。