安土桃山時代から江戸時代にかけて、戦略から戦いまで幅広く活躍した戦国武将である加藤清正。
そんな加藤清正には様々な子孫が存在しますが、現在は「加藤本家」の子孫は途絶えていると言われています。
さらに子孫が途絶えた原因の一因に改易が大きく関わっているということがわかりました。
今回は、なぜ加藤本家の子孫が途絶えてしまったのか、その理由に大きく関係している重要な人物をご紹介いたします。
加藤忠広
加藤忠広は、父・加藤清正の三男(実質の長男)であり、のちに受け継いだものを失うことになる人物です。
なぜ実質長男なのかというと、2人の兄が幼いころに亡くなってしまったからです。
その結果、実質長男として後継ぎは加藤忠広ということになりました。
加藤清正が亡くなったのは加藤忠広が11歳の時であり、同時に熊本藩主となりましたが、この若さが故に、家臣をまとめることができず、派閥ができてしまったり、統一が取れなかったようです。
さらに、まだ幼かった加藤忠広に相続させる事に様々な反対の声があり、条件を提示の上での相続となりました。
その条件とは、「加藤家の家臣に誓約書を書かせる」といったもので、徳川家康が提示したものでした。
偉大な父を持つが故に周りの目も厳しかったのではないでしょうか。
最終的に加藤清正の評価が良かっただけに加藤忠広はイマイチな評価であったようです。
穏やかな加藤清正とは違い、加藤忠広は気性も荒かったという話がありますが、幼い頃に抱えきれない程のものを背負い、強くなるしかなったのではないかと思ってしまいます。
加藤光広
加藤光広は加藤忠広の息子であり、加藤家子孫繁栄に大きく関係する人物と言われています。
発端は幼い頃、子供の遊びで悪気なく大名の名前を書いて、謀反の書状を作成して遊んでいました。
加藤光広にとっては「ただの遊び」なのですが、その行為が徳川幕府の目に留まりお家取り潰しとなってしまったのです。
しかし、なぜ子供の遊びで改易にまで発展してしまったのでしょうか。
実は、その理由は下記の通り、他にありました。
・元々豊臣秀吉の家臣だった加藤忠広が妬ましかったから
・加藤忠広は徳川家康の弟である徳川忠長と仲が良かったから
・家臣をまとめることができない加藤信忠に不信感を抱いたものが多かったから
加藤光広の「遊び」はその理由を裏に秘めた都合の良い理由だったにすぎません。
現代でいうと、でっちあげ状態で加藤家は改易に向かってしまいます。
この改易の責任を感じて加藤光広は自刃したという説が存在しています。
様々なしがらみに飲み込まれ、周りの厳しい目に耐えきれなかったのではないでしょうか。
加藤光広の心情を思うと、辛い気持ちが伝わってきます。
下記の写真は加藤光広のお墓です。
加藤セチ
加藤セチとは加藤清正の子孫であり、「加藤本家最後の人物」です。
加藤セチには兄がいましたが幼い頃に亡くなっており、実質は後継ぎの扱いでした。
したがって、加藤セチが婿養子をとることになり、得三郎と結婚したのです。
夫・得三郎の間には子供が1人いましたが、太平洋戦争により亡くなっています。
たったひとりの子供を亡くしてしまった為、加藤セチには後継ぎがおらず、加藤本家の子孫は途絶えてしまったのです。
ちなみに、加藤セチは研究会において非常に高い実績を残されています。
教師として勤務しながら北海道農学部で自身も学び理研に入所し、女性初の主任研究員として理研の特徴を生かしながら研究に取り組んだ方です。
子孫繁栄は途絶えてしまいましたが、しっかりと自身を高め、強く生き抜いた女性であることは間違いないようです。
世間の声
まとめ
今回は加藤清正の子孫が途絶えた理由について調べてみました。
まとめると下記になります
- 加藤忠広は11歳で父・加藤清正の後継ぎとして熊本藩主となった。
- 加藤光広は幼い頃の遊びにより、改易にまで発展した。
- 加藤セチには息子がいたが、戦争でなくなっている為、子孫繁栄は途絶えた。
加藤清正が偉大だったからこそ、幕府からの目は厳しく辛い経験が多かったのではないでしょうか。
現代に置き換えると、2世という状況の中、その立場を良い方に向かわせるのか、または今回のように悪い方に向かわせるのか、それは本人の努力だけではなく周りの環境も大きく関係しているのではないかと思います。
もしも、加藤清正から受け継いだものを加藤忠広が守ることができ、周りの助けを借りながら、改易を回避していたのであれば、加藤光広も自刃することもなく、子孫が途絶えることもなかったのかもしれないと、思わずにはいられません。
2世タレントといえば、北村一輝さんの息子である北村将清さんも有名ですよね。
北村将清は北村一輝の息子だが、カレー屋兼ダンサーとして活躍中!もし良かったらご覧ください。