明智光秀の死因と本能寺の変後の落ち武者狩り

明智光秀は、戦国時代~安土桃山時代にかけての武将で、「本能寺の変を起こした男」として知られています。

2020年には大河ドラマ『麒麟がくる』で明智光秀が主役のドラマが放送され、放送当時は盛り上がりました。

今回は明智光秀の最期に焦点をあて、死因や状況について詳細に迫ってみました。

死因:最終的に自害


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明智光秀の死因は最終的には自害と言われています。

本能寺の変の11日後とされる1582年7月2日に切腹し生涯を終えました。

 

亡くなるまでの経緯

さて、亡くなったのは自害ということが分かりましたが、どのような状況だったのでしょうか。

本能寺の変から自害するまでの残り12日間について、超解説します。

 

本能寺の変を起こす


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本能寺の変とは、明智光秀が諸反を起こして織田信長に襲撃を起こした事件です。

1582年6月21日早朝、明智光秀は1万の軍勢を持ち、織田信長の寝込みを襲いました。

この時織田信長は手勢100程だった為、あっというまに包囲されたのを語り、寺に火を放ち自害しました。

 

明智光秀は織田信長の家臣として仕えていたので、「主殺しの逆臣」との汚名も持っています。

 

山崎の戦いで敗北


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織田信長の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、織田信長の仇討ちを果たす為、1582年7月2日、山崎の戦いを起こしました。

羽柴秀吉・その他家臣による軍と、明智光秀の軍との間の戦いでしたが、この合戦は敗北してしまいました。

 

敗北の大きな原因は戦力の差でした。

羽柴秀吉の軍が約4万に対し、明智光秀の軍は約1.5万だったとか。

その為、明智光秀にとってはこの山崎の戦が最期の戦いとなりました。

 

落ち武者狩りに遭い亡くなる

明智光秀の最期は、道中で百姓による落ち武者狩りに遭って重傷を負ったことが知られています。

山崎の戦いで敗北した明智光秀は、勝竜城になんとか逃げ込みましたが、まだまだ安全が確保されない為、そこから自らの城である坂本城を目指しました。

 

しかし、坂本城にはたどり着くことは出来ず、道中で百姓による落ち武者狩りに遭ってしまいました。

明智光秀は竹槍で腰のあたりを突き刺されて重傷を負い、もう逃げられないと判断して自害しました。

 

 

本当は生き延びた説もある


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実は「天海説」と言われる説で、山崎の戦いの敗北後、生き延びていたという説もあります。

それは徳川家康の僧侶であった「南光坊天海」が明智光秀の同一人物ではないかという説です。

これが本当であれば、敗北の後も生き延びていたということになります。

 

しかし、専門の歴史家ではあまり事実として扱われておらず、信憑性は低いのではないかと言われています。

その為、落ち武者狩りに遭ってそこから亡くなったというのが真実に近いものと考えられますね。

 

本能寺の変を実行した様々な動機

本能寺の変を起こした動機については、細かく分けると何百との説があり、未だ謎に包まれています。

その中でも有力な説をご紹介します。

 

  • 野望説:ひそかに天下をとりたいという野心を抱いていた説
  • 怨恨説:織田信長を恨んでいた説
  • 朝廷黒幕説:織田信長が天皇に嫌がらせをしたことで朝廷が織田信長を討てと命じた説
  • 足利義昭黒幕説:織田信長を討て!と命じたのは足利義昭だという説
  • 四国説:織田信長の四国の領土問題に関する政策が手のひら返しの政策で、明智光秀を追い詰めたという説

様々な説があり、謎のままではありますが、この本能寺の変による日本の歴史に衝撃を与えたことについては事実ですね。

 

 

身内の死因

ここまでは明智光秀の最期について解説してきました。

明智光秀の身内である妻や母親の死因も有名なので、2人についても紹介します。

 

妻・煕子は病死していた

妻・煕子(ひろこ)は看病疲れによる病死と言われています。

戦国時代でとても仲が良く、明智光秀は生涯煕子を愛し続けました。

本能寺の変の6年前、明智光秀は病気で倒れてしまったのですが、煕子は必死に看病し、その甲斐もあって明智光秀は回復しました。

 

しかし、看病で疲れ切ってしまったのか、入れ替わるようにして煕子も発病してしまいます。

もちろん明智光秀も神社で祈祷を依頼したりと必死に看病し、一時的に回復しましたが容態が悪化し、46歳にして息を引き取りました。

 

当時は先だった妻の葬儀には立ち会わない風習があったようですが、明智光秀は妻の葬儀に参列したようです。

最愛の妻を亡くす明智光秀の気持ちを考えると、いたたまれません。

 

母・お牧の方は処刑されていた


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母親のお牧の方は人質となり処刑され、亡くなりました。

明智光秀は当時、織田軍の丹波攻略の司令官をしていました。

 

丹波攻略の為、織田信長を敵対していた丹波の大名である波多野秀治を攻めていました。

明智光秀は波多野秀治に降伏を求め、母親を人質として送り込みました。

条件は波多野家の領地を安堵すること、波多野一族を助命することでした。

 

降伏すれば母親はすぐに戻ってくる予定で、この条件を飲んだ波多野秀治は降伏、丹波攻略を成功しました。

しかし、織田信長は明智光秀の話を聞かず、波多野一族の粛清を命じ、波多野秀治やその弟を磔の刑にしました。

 

波多野家にとっては明智光秀の裏切りです。

怒りに震えた波多野家は、人質にとったお牧の方を磔の刑にしました。

 

本来戻ってくるはずだった母親が磔の刑に処刑されたことを考えると、立ち直れない傷を負ったのではないでしょうか。

明智光秀はこの母親のことをきっかけに織田信長を恨み、本能寺の変を起こした理由とも言われています。

 

世間の声


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まとめ

明智光秀の最期について超解説しました。

  • 死因は最終的には自害と言われている
  • 本能寺の変を起こし、当時仕えていた織田信長を討ち、「主殺しの逆臣」との汚名を持った
  • 羽柴秀吉が織田信長の仇討ちの為山崎の戦いを起こし、明智光秀は敗北した
  • 最期は自らの城へ向かう道中で百姓による落ち武者狩りで重傷を負い、自害した。
  • 本能寺の変を起こした動機は何百の説があり、謎に包まれている
  • 徳川家康の僧侶であった「南光坊天海」が明智光秀の同一人物ではないかという説があり、実は生きていたのではないかという説があった
  • 明智光秀は生涯妻の煕子を愛していたが、煕子は看病疲れで先に亡くなってしまった
  • 母親を人質となり磔の刑に処され亡くなった

 

明智光秀は本能寺の変で歴史に衝撃を与えたにもかかわらず、そこからわずか12日しか生きられませんでした。

悲劇的な最期でしたが、もし明智光秀がいなければ歴史は全く違うものだったと考えられますね。

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