徳川家康の性格は真面目だが、女性関係は派手だった!

徳川家康

江戸幕府を開き、三英傑(徳川家康、織田信長、豊臣秀吉)とも呼ばれる程活躍した徳川家康。

しかし、「狸親父(優しい顔をして裏では腹黒い事をする人)」と呼ばれる側面もありました。

真面目な性格とは裏腹に、女性関係は派手だったと言われています。

 

実際どのような人物だったのでしょうか?

徳川家康の性格と女性関係について追っていきたいと思います。

 

 

5つの性格まとめ

徳川家康2
出典:https://ja.wikipedia.org

徳川家康は、真面目な性格だったと言われています。

どのような一面があったのか、エピソードと共に見ていきましょう。

 

①我慢強い

徳川家康3
出典:https://okazaki-kanko.jp

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」の句からも分かるように、徳川家康は忍耐強い性格であったと想像ができます。

 

織田信長の家臣として従っていた時には、自らの息子を殺害するという命令にも逆らうことなく従い、天下統一に近づく為に尽くしました

さらに、豊臣秀吉が優勢になると豊臣側に加わり、秀吉が死んで天下統一の好機が訪れるまでなんと10年もの歳月を待ったとされています

 

この忍耐強さは、幼少期の生活から培われたものだと考えられます。

徳川家康は、織田家や今川家で10年にも渡る人質生活を送っていました。幼少期に織田家へ行き、産まれた岡崎城へ戻れたのはなんと19歳の頃でした。

我慢強い性格はこの長い人質生活にあったのではないでしょうか。

 

②義理堅い

徳川家康は、「私にとって1番の宝は、私の為に命をかけてくれる武士500騎だ」と家臣を大切にする義理堅い性格でした。

 

幼い頃に石合戦をしている子供たちを見た時に、「数が少ないほうが勝つ。少ないから協力して必死に勝とうとするからだ」と団結して力を発揮する事を見抜いていました。

この頃から仲間や団結する事の大切さを分かっており、義理堅い性格に繋がっているのではないかと考えられます。

 

また、織田信長との同盟でも義理堅い性格が垣間見えます。

徳川家康は信長と同盟を結んでいたが、途中で信長の義弟である浅井長政から裏切りに合い襲撃を受けてしまいます。

しかし、その後も信長が死ぬまで同盟は解消しなかったのです。

 

周りの人を大切にする義理堅い性格であることが分かります。

裏切るのが当たり前とされていたこの時代では珍しい性格だったようです。

 

 

③教育熱心

三方ヶ原の戦い
出典:https://ja.wikipedia.org

徳川家康は、歴史上の人物の中でも教育熱心だったと言われています。

お金で家臣を雇うのではなく、家臣を育てる事に脚力しました

 

自分に足りないものは優秀な部下を信じて託すことで、最強の三河武士を育てあげます

 

そこには、徳川家康自身のマネジメント能力、観察力があったと考えられます。

『三方ヶ原の戦い』での大敗の後には相手である武田信玄の戦法を取り入れ、『関ヶ原の戦い』に活かしました。

また勉強家で特に『日本史』を好んで学び、鎌倉幕府や室町幕府の体制も学び戦に活かしています。

 

義理堅い性格で相手を信頼していたからこそ、家臣を育てる教育に熱心だったのだと考えられます。

 

現代でもしっかり部下を育てる事のできる上司になりそうな性格ですね。

 

④ケチ(質素倹約)

天下を取った徳川家康ですが、贅沢はせず質素な生活を心がけた倹約家だったと言われています。

ケチな性格についての逸話がいくつも残されています。

 

  • 手を拭くために用意した紙が庭に飛ばされた時、全ての紙を拾った。
  • ふんどしは洗う回数を減らすために黄色いものを使っていた。
  • ボロボロの着物を着ていた。
  • 女中がご飯のおかわりをしないように塩辛いものを与えた。
  • 天下統一後、家臣に与えた領地が少なかった。

 

自分だけではなく家臣や奥さんにも倹約を強いる程に倹約家だった事がわかります。

 

この倹約により浮いたお金は、幕府の蓄えになっていました

自らの事は必要最小限に抑え、いざという時に使っていたのです。

 

その例の1つが「伊勢神宮の式年遷宮」です。

690年以降続けられてきましたが、資金難により120年程中止が余儀なくされていました。それが再開できたのが、徳川家康による資金援助のおかげだったのです。

 

倹約家でケチだとされた徳川家康ですが、先の事を考える事の出来る堅実な面もあったという事が分かります

 

⑤健康志向

徳川家康は、自分で薬を調合するほどの健康志向だったと言われています。

食事面での栄養バランスや薬に関する知識等、医師顔負けの知識を有していました。

病気になり医師と意見が食い違った際には、自分で薬を調合して病気を治したというエピソードもあります。

享年は75歳。江戸時代の平均寿命は30歳~40歳程だったと言われているので、当時だとかなり長生きだったようです。

 

戦で怪我をした家臣の傷口を石鹸で洗って感染症を防いだという話もあるので、病気や怪我にとても気を使っていたことが分かります。

 

 

派手な女性関係


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徳川家康は、20人以上の妻がいた程女性関係が派手でした

気に入ったら性格や年齢構わず妻として迎え入れ、自由に恋愛をしていたのです。

 

その内の1人『旭姫』は豊臣秀吉の実の妹です。

当時、仲違いしていた徳川家と豊臣家の中を取り持つ為の攻略結婚でした。

 

また10代~60代の間に16人もの子供に恵まれ、そのうちの8人は50代以降の子です。

60代で子供を授かるのは現在でも珍しいくらいの年齢で驚きますね。

 

徳川家康の子供には、父親未承認の子である『落胤(らくいん)』が10人近くと多くいました

その中には大名や将軍となる人物も多く、『徳川家光』や『豊臣秀頼』もその中の1人と言われています。

 

あまりの女性関係の派手さから、子孫を残す為の政治的戦略なのかはたまた手が早く女癖が悪かっただけなのかと議論されています

 

世間の声

徳川家康世間の声1
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徳川家康世間の声2
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徳川家康世間の声3
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まとめ

今回は、徳川家康の性格や女性関係について追っていきました。

  • 天下を取る為に10年も耐える程我慢強い性格だった為、好転期をものにして天下を取れた。
  • 家臣や仲間を大切にする義理堅い性格だった。
  • 家臣を最強の三河武士に育て上げる程教育熱心だった。
  • 家臣や奥さんにも倹約を強いる程ケチな性格だったが、先の事を考える堅実な面もあった。
  • 薬を自ら調合して病気を治し、75歳まで生きた健康志向であった。

 

一見真面目そうな性格に見える徳川家康にも派手な女性関係という意外な一面がある事が分かりました。

義理堅く、先の事をしっかり考える事の出来る性格だからこそ天下統一を成し遂げる事ができたのだと思います。

 

完璧に見える性格も女性関係から人間味を感じられて、偉い将軍も私たちと同じ人間なのだと感じられますね。

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